仏果を得よ

久しぶりに、伊達大夫師匠の忠六を聴いていたら、また新たな発見。

原郷右衛門の台詞「仏果を得よ」で思わず涙が。

今までは勘平の「仏果とは汚らわし、死なぬ死なぬ~」で泣いてたのに。

非業の最期を遂げ行く若い同志を見送る郷右衛門のなんとも言えぬ悲しみが伝わってきた。
勘平が金のために舅を殺したと聞いたときの「これさ勘平、お前ゃ、どうしたのだ」も、きっと息子ほどの年の勘平を父のように慈しんできたから自ずと口をついて出た台詞なのでしょう。
(きっと赤穂ほどの小藩なら家中みな家族みたいなもんであったと思われ)

それが誤解であったと分かったとき、ふと出来心から忠臣の道を踏み外すことになり、今またふとした間違いから不運な死を遂げることになってしまった勘平を、せめても成仏させてやりたいという切なる思いが「仏果を得よ」という言葉となったものでありましょう。

うーむ、さすが三大名作の一、聴けば聴くほど奥深いですなあ。

ところでやはり伊達師匠はよい。
だみ声で豪快で、およそ都会的洗練とはかけ離れた、いかにもナニワ的な泥臭い浄瑠璃でしたが(ほめてるのですよ)
こういう細やかな人の心の機微をも逃さず余すことなく表現するとは流石である。
なんで切語りにしてあげなかったのか。

いまほんとにこういう太夫さんいなくなっちゃったなあ。
きれいにこじんまりとまとめたらいかんよという師匠の教えが、伊達師匠の浄瑠璃を聴くとすとんと腑に落ちる。

ところで、五段目で得をしたのは猪ばかり、という川柳があるそうな。
ほんとに勘平はよくよく運のない奴だ。


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